昭和四十六年七月十八日
X御理解第八十四節
「驕りがましい事をすな。細うても永う続かねば繁盛ではないぞ。細い道でも次第に踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草をはやすようなことをすな。」
道に草をはやす様な、いつもお金に不自由している人、いつも借金に追われておる人。別に貯まりはせんけどまあその日その日の事には事欠かない。借金もない。と云うて余分に貯金がある訳でもない。と云うと沢山な予備が有る。貯金か預金がと云う人は例えば、お金を持ってるとか持ってないとか、貧乏とか裕福とかと云うことを申しますが、そういう三つの段階に分けられる。いつもいつも借金に責められておる人。おかげで借金もない、貯りもせんけど借金もない。その日その日を贅沢さえせねばやって行けれる程度の人。と云うて又沢山のお金を持って居る人と、そこでその中のどれをお互いが一番求めて居るか、欲して居るか。もう一生貧乏で良いと云う人は恐らくなかろうと思う。せめて借金なりとも片付いたら楽になるだろうと思うとる人もあるだろう。皆さんどうでしょうか。私はこの八十四節はそういうお互いが願いに願っておる、ここでは繁盛と云う言葉を使ってある。細うても永く続くのが繁盛じゃ。繁盛、本当に繁盛のおかげを頂きたいと思わない、願わない者はなかろうと思うのです。どうでしょうか。云うならば、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と云う様に繁盛して行く元をです、頂けるものなら頂きたいとこう思う。なかなかお互い繁盛の道を辿っていない。何か一辺にそれこそ、昔は百万円の宝くじと云いよったけど、この頃は一千万円になっているそうですね。私はそれを先日知った。ああ石井さんのところの霊祭がございました時に自動車で久留米にやらせて貰いました時に、デパートの前にそんなポスターが出ておった。一千万円宝くじ。百万円宝くじではない。もう百万円どてじゃ皆がね、大して魅力じゃない。一千万円の宝くじ。それはまあ幾らでしょうか、何百円かで買う訳でしょう。するとその何百円かが一遍に一千万円になるのですから、やはり魅力ですよね。果してそういう様な、いわば夢又夢の様な事を考えておったんでは決して繁盛にはつながりません。よしならば万が一にも当たったと致しましょうかね。それはもう借金に追われておった人が一千万ものお金が入って来たと致しましょうか。もう恐らくまたたく間になくなるでようね。一千万という大金でありましても、それを元でに儲け出そうと、そういう金が入った為にかえって困った、又難儀な事になっておられる人の話を幾つも聞きました。持ちつけない人が持った為にです、かえって人間の不幸を招いたと云う事を聞きます。だからお互いがそういう夢の様なことをね、先ず心の中に考えの中にあるとするならば、先ず第一にこれを捨てる事です。先ずそういう夢の様なことを捨て切ることです。そして細うても永う続くと、道に草をはやさんようにせよとか、道に草をはやさんとはどういう事であろうか。私は先ず第一にです、ここんところが出来ていかにゃいけん。道に草をはやさん様にしていくことの為に信心の稽古をする。それをも少し云うと驕りがましいことをすなと仰るが、どの様な場合でも驕りがましい心が出ようにも出様がない程しの心に自分の心にしつけと云うものがちゃんと出来とかんといかんと思います。
神様でも例えば、沢山のお金をまあ欲しいと思うから神様が下さる。願え願って頂くとするか、それを願って下さると云うことは、その願ったおかげで氏子が幸せになると云うことが神様の願いですよね。親のお願いです。持たせた為にかえって難儀をすると云うことの為に神様が下さろう筈が無い。果して自分はそれを持った時にそれだけの確信があるかどうか。ちょこっとばっかり例えば、お金が入る。ボーナスならボーナスが入る。そうするともうちゃんとそのボーナスはもう当てにしてある。洋服も買わんならん、ステレオもいっちょ買いたい。テレビもカラーでと云った様な、もう入って来るのをちゃんと前から当てにしとる。そういう考えの方はまずまず繁盛のおかげは頂けない人ですね。神様は絶対下さらんです。そういう考えの人間氏子にはどうでしょうか、皆さんの心にはないでしょうか。そういう心は今度賞与が入ったならあれを買おう、これも買おうとそういう考え、それが驕りがましい心なのです。少し金が入るともうすぐ家を美しく仕様とする。すぐ洋服を新調しようとする。すぐ美味しいものを食べに行こうという。だからそういう考えがね、起こる様ではまずあなたは繁盛する又神様がおかげを下さる、受ける資格はないと、又神様は下さりもせんです。
昨夜から青年会の方達が一泊、昨夜から泊り込みで信心の稽古。信心の実習会を今日一日でしょう、まあやっております。
青年会の方達が昨夜そのお届をしますから信心の稽古稽古と云うても稽古させて頂く前の姿勢を作ると云う事に一つ焦点を置いて共励をなさい、実習をしなさいと申しました。
稽古稽古と云うて只参りさえすればよかごと思うて、拝みさえすればよかごと思うて、只お話さえ頂けばよかごと思うてね。信心を稽古をさせて頂く前の先ず準備をせなければいけん。姿勢を作らにゃいけん。ですから、私共が繁盛のおかげを頂きたいなら、信心に依って本当の細うても段々末広がりに広がって行く。そのまま行けば広がって行く他には仕様が無い。お金がお金を生んで行く。利が利を生んで行く。そういう私は自信に満ちた希望のある繁盛のおかげを頂かせて頂く為に、その基本にもなり基礎にもなるところを、先ず本気で稽古しなければいけない。
そこでです、まあ借金に追われている人はその借金に追われて苦しんでおる時にそれをしっかり身に付けとかにゃいけん。毎日毎日がまあゆとりはないけれども、まあその日暮し的な生き方のできて居る人が、余裕のある生活がしたい余裕のあるおかげを頂きたいと願うならです、そういうその日その日のおかげの頂けれる時にです、しっかり繁盛のおかげの頂けれる時にどういうおかげを頂いても、もうそれこそ、微動だにせんだけの心を作って神様に見て褒められる信心。うん、この氏子ならばいくら持たせてもよいぞと云われる程しの内容を身に付けておかねばならん。
ここにいくらお金があったなら、これこれのお金が欲しいなと思う前にそういうおかげが欲しいならそれを頂けれる姿勢を先ず作れと云うことである。只、どうぞお繰り合わせを願います、お繰合わせを願いますと云うたってお繰合わせを頂いたにしてもそれだけのこと。もう次には又願わんならん。そこでいわば道に草を生やさんで済む程しの信心をちゃんと身に付けておかねばならん。
もう道に草を生やす、いわば筈が無い。篤農と云われる人達は畑に草の生える前に草を取ると云われとります。もう生える筈が無い。もう草の生える前から草を取ると云う姿勢を作っとる。中位の人達は生えたら取ると云う程度らしい。一番つまらん農家と云うのはあそこは何時でん草がぼうぼうと云うごとしとる。そこでですね、お互いが最高のおかげを頂きたい。これが繁盛につながる。これなら絶対に繁盛につながる。その日その日1のおかげを頂いて居るだけでは、今度は子供が孫が、それではそれをしっかり受け継いでくれれば良い。その日暮しのおかげを、けれどもそれが出来んともうその人は難儀をせなければならん。その日暮しのおかげの頂けれるこつあいを教えておけばよい。だからどうでもひとつ道に草を生やさんで済む様なおかげ、同時に自分の心から奢りがましいと云う心がです、無くなって仕舞うおかげを、先ず身に付けなければならんと云うことになります。そこでそういう稽古とはどういう事か。
京都の竜安寺という石庭で有名なお寺さんがありますね。あちらの小さいお手洗いに行きますところの途中に丸い筒型の手洗い鉢があります。それが真中が丁度昔のあれは何と云いますかお金がありますね。一厘銭と云うのがありますね。一厘銭の型に上が刻んである。真中に四角い穴がほげておる。その四方にですね、真中が口と云う字に見立ててあるのですね。真中の水の溜るところがそして、只、吾れ只足るを知る、と読める様に書いてある。吾れ只足るを知ると。真中の口と云う字ですから上の方へ五と書くと吾れと云う字になる。左の方へ口を書くと只と云うことになる。吾れ只、その下の方へこの足という字ですから足る(たる)と云う字、そして口と云う字を右にしてこう書きますと知ると云う字になります。なかなか工夫したものですね。手を洗う度に果して自分の心の中に現在この身この尽の中に不平不足はないかと云う訳なのであります。お金があろうが無かろうが食べ物が有ろうが無かろうが、それで吾れ足るを知ると云う心の状態。いや只、吾れ足るを知るだけではなくて、そういう心の状態を楽しんでおると云う感じですね。あそこは禅寺ですから禅の教えから云うと、そういう来る日も来る日もそれこそ、薄い水の様な茶粥さんに御粗末な菜っ葉でも頂いておられると云う事ですが、今日はいっちょすき焼きでも食べたかねと、今日は鯛の刺身でもと云う様な思いをしないと云うこと。今日のお粥さん一杯与えられる事を有難いと思うとこう云う。だからその吾れ足るを知ると云うだけではね。やはり一生お粥さん食べんならん様な感じが致します。その事の中に味わいがある。有難いものが分かる。それなら決していつまでもお粥さん食べんならんと云うことは先ず無いですね。
金光様の御信心に依ってそこが分かり、そこが頂ける様になる。そこでまあそれは禅の心か知りませんがそれによく似た事をお茶の道にも申します。それを「わび」「さび」と言いますね。「わび」「さび」わざわざ草庵、いわゆる藁葺の様な御粗末な家を建てて柱一本でも節だらけの柱を選んで茶室を造ります。小さい四畳半か六畳の、又は三畳の窮屈な中でお茶を致します。そのお茶の道具と云えばまあ豪華絢爛な道具やらもございますけれども、お茶の精神はそこからは学べられれない。もうそれこそあるもの、自分で造った手作りの茶杓やら又は茶碗やらをもってお茶を楽しもうとこういう訳です。そのお茶を只飲んで味わうと言うだけではなくて、そこまで至る為に茶の道があるのです。やるならいざ知らずですけれども、お茶の道をちゃんと習わせて頂いて自分がそれを体得出来ましたら一手前間違うたらそれは先に進んで行かれん。
私は今日皆さんに分かって頂きたいのはそこんとこ。道に草を生やすなとはそういう事なんです。ですから、お茶の道を学ぶ為にはお茶の道を習わねばならない様に信心の道を学ぶ為には信心の道を学ばなければいけません。
信心の道とはどういう道かというと、人間が幸せになる、幸福になる絶対なれる。しかも踏み広げる、踏み広げれる道なのである。 お互いが借金を負い被っておるよりも、その日暮しよりもそこに余裕のあるゆとりのあるおかげを頂きたいと願わん者はあるまいが。そういうおかげを頂いた時にです、道に草を生やさんで済むだけの、いわば手順と云うかその道と云うものを体得しとかなければならない。それは実に楽しい事であり有難いことである。お茶の道を体得してお茶をする人はちょいとお茶とは面倒くさいこげな事せにゃならんとたびたび思いはせん。その手前の一手前一手前が楽しうて楽しうてたまらんのである。そして、うかつにも一手前抜かしたらもう次の手前は打たれんのである。信心でもそうです。ここに道に草を生やす様なことをすなとは、もうそこに一本でも草が生えとったらもう前には進まれん。信心はこれなんです。一日のこと振り返ってみて、昨夜私、昨日は合楽会でございました。合楽会の丁度半ばに髭剃りに来て頂きました。ですから、半ばに立たせて頂いて髭をあたって頂いたがそのまま寝込んで仕舞った。それでああ最後の御祈念をするのを忘れておったと思うて、もう十二時を回っておりましたでしょうか。寝衣のままでしたが体を清めさせていただいてから、又ここに出て参りました。出てきて良かったと思いました。正面玄関の戸が開いとる。電気はあちこちに明々とついとる。つける分は良いけども何にもならん所につける。今つけると虫が入っていかん。だから宵の中なんかほとんど電気を消して仕舞って御祈念をする位、それにもうそこにもここにも電気はつけっ放しである。まだ青年会の人達が後で話合いをしとったらしい。そして必ず私はどんなに遅くなっても必ず御祈念をさせて貰う。もうそうしなければ眠られんのです。だから草一本生えんのです。そういう生き方である。もうよかよか、今日御無礼してからと云う様なことがない。だから、翌日は又草が生えとる。まあ云うならばです、信心の道を覚えると云うことは、お茶の道を例えば、体得して仕舞うと云うことは実に楽しいこと、有難いこと、一手前でもお粗末には出来ない。 信心の道もそういう道を体得させて頂いたらです、もう道に草を生やすことは絶対にありますまい。おかげの頂ける道ですよ。
もう繁盛の道に草を生やすことは先ずないでしょう。一通り体得して仕舞ったらそれは決して難しい事じゃない。そこでお互いが様々な意味に於て難儀しておる時にです、どうかしていっちょ儲け出さにゃ、どうかして金儲けせにゃ、それこそ一千万円の宝くじなと買うてから、ふがよかりゃそれで当たってから贅沢しようと云う考えがある間はまずまず、あなたは絶対繁盛の道は受けられないと知らなければいけません。
賞与が入ったらあれば買おう、これば買おうともう入ったら最後汚いものが手についた様にして払うて仕舞う人がある。そういう人に沢山のお金を持たせなさる筈が無い。神様はよし持たせなさっても持った金で必ず難儀をする。必ずその持った金で苦労をしておる。そして、金があるばかりにと云う難儀が生まれて居る。これはもう絶対である。そこでです、私共が一番初めに奢りがましい事すなと仰せられる。それこそ吾れ只足るを知ると云う精神がです、決して鯛の刺身を食べてはならぬと云うのではない。それこそ十万も二十万もする錦紗の着物を着てはならんのではない。それがね、無理をせずに楽に着られる様になり、食べられるようになったらそれは有難い事なんである。けれども手の届かんとにそれに借金してでもそれを求め様とするその心が奢る心なのである。もう絶対買わんぞと、ぜったい贅沢はせんぞと、そういう心にならせて頂いたら神様はね、やらなければおかん、満たせてやらなければおかんと云う働きが必ず始まっとるです。だから、禅のそれじゃないけどね、「吾れ只足るを知る」だけではね、一生お粥さん食べておかねばならんです。まあそこに味わいもあるでしょう。あると思う。けどそれだけではいかん。その事が有難いと云う事にならなければ。そこには奢りがましい心は影を絶って仕舞うでしょう。道に草を生やす様なことはまずなくなるでしょう。
お茶の道を体得したら、それは楽しい実に優雅な生活をしとるかと云うと、小さい庵をむすんでそこで「わび」の精神を分かり「さび」の精神が分かる。古いものなら古いもの程そこに味わいを感じ取らせて頂ける心が生まれる。
お茶の道を体得する。一手前おろそかにしては先に進まれんものが身に付いてくる。もう血肉の中に入って仕舞う。信心の道もその血肉の中に入って仕舞うおかげを頂いたら有難い事になる。驕りがましい心が勿論起こらんが、道に草を生やす様なことはまずまずない。いわゆる入る前からちゃっととらせて頂いとる様なね、生活が身に付いて参りましたら、もう神様はそれこそ要れば要る程のことを周囲から見たら、まああげな贅沢が出来たらさぞ良かろうと云う様な結構なおかげがちゃんとついて頂けて来る様になると云うこと。もう実に有難い。ああもう今夜も有難いことに決っておるから、本当に金の一万でも十万でもこの有難いことに使いたいと思うけども、さあ金が無かったら使えんでしょうが。
私は、昨日或る事を聞かせて頂いた。したらここにお金が十万あったら本当によいと云う話を聞かせて頂いて、それなら私がおかげを頂かせて頂きましょうと云うて、それが出来るから本当に昔はね、ここにそんな事が出来たらさぞ善かろうと思ったけれども、それが出来なかった。ところがね、決して無駄な事には使いはせん。それが本当にいけない事なら使いはせん。本当にそれだけあれば、そこがそういうおかげが受けられる事が分かったら、さあ無かったら出して上げましょうと云うことが出来る。それが見通しが出来たから、ならそれだけは私がおかげ受けましょうともう平気でしかも有難く云えれる。もうそれを云わせて頂いてから、有難いことになってきたもんだなあと思う。それがもし、百万円無からなければいけんと云うなら恐らく百万円私が出しましょうと私は言えたに違いない。出せれる今の私にはしかも有難く、これは私は道に草を生やさんような生き方を私はさせて頂いとるから、驕りがましい心を起こさんから、神様がこの氏子なら幾ら任せても良いと云うおかげがあるからではなかろうか。それがある為に私は難儀を一つもしない。ある為に難儀をするなんてこんな馬鹿気た話はない。ところが世の多くの分限者という人は、その分限者である為に沢山な田地、田畑、お金を持っている為に難儀している人が先ず、多いと云うことであります。まず殆どであります。信心の道を体得して、道に依って生まれて来るものならば、有るものは有難いものばっかり。それは信心に依って驕りがましい事をもう出ようがない程しに驕りがましい心なぞはもう心の中に微塵も起こらない。勿論、道に草を生やす様なことはまずない。そういうおかげが頂けるときにです、踏み広げて通って行ける、もう絶対に末広がりに広がって行く。繁盛の道につながって行く訳であります。 どうぞ。